星野さんのアンチプレート論を読む、そして、迫力有る大学の授業とは何かを考える

 
 現在の研究状況(者)に閉塞性を感じる星野さんの意見に同感です。そして、一見異なるようですが、大学の授業にもその強い影が有ると痛感しています。今始まったことではないのかも知れませんが、大学の教育が危ない、否、日本の教育(若者)が危ない、と言うことで拙筆ながら感想を書かせて頂きます。

 
 地質学の出身でない私は、地核にマントルの対流が有ることを湊さん、井尻さんの岩波新書を呼んで「へーどうしてこんな事が解るのかなー」という程度の貧弱な知識しか有りません。そのためプレート説については判断の域を超えています。しかし学問分野が違いますが、星野さんが現在の科学の状況に感じていることはまったく私も同感なのです。自由に考えない、学問上の討論でも相手を刺激しない(相手を傷つけない)で済ませる、つまり自分も傷つきたくない、それでいて自己顕示欲が強い等等です。学会、シンポジウムも自分のしゃべりたいことだけで相手の意見を吸収し新しい真理へ近づこうと言う姿勢の希薄さを感じるのです。それでいて海外の学説、権威に盲従する。この様な、状況に私も窒息しそうなのです。もっと自由に意見を述べ様々な思考の選択肢があって良いだろう・・・と。派手で噂好き、(内に向かって)自信過剰(つまり自信がない、井の中の蛙)、他人の評価を気にするなど、閉塞性の反動でしょう。

 
 これが大学の授業にまで及んでいると私は考えています。学問に裏打ちされた授業というのが本来の大学の姿でしょう。しかし、現実には教科書の鸚鵡返し、はたまた、インターネットでいろいろ情報を調べた結果を、「これは君たちは知らないだろう」と並べたてる。この様な教師は私にとって理解不可能なのです。そこには授業課題への疑問が殆ど観ることが出来ないからです。これを閉鎖的、閉塞性と同根の問題と私は捉えています。

 教科書だって一皮むけば疑問が沢山あります。これに不安を感じないでひたすら教える(?)授業の何処に魅力があるのでしょう。疑問を持つから議論になる、勉強会になりセミナーになります。それをしない大学教員に疑問を持たざるを得ないのです。議論がないから勢い自己中心の自分本位の研究と教育になる。このような人間ほど、学生そして父母からの授業への抗議にあうとうろたえる。先日、研究室の授業打ち合わせで、学生の子供時代の状況の分析を話した、すると「昔の話をしても何もならない」という発言が飛び出た。学生の育ってきた環境を解析し原因を見極め、今の学生の状況への対応を考えるのが我々教師のなすべき科学的な態度であろうのに・・・・。残念ながら議論する気にもなれない。無駄だと感じてしまうのである(歳か?)。

 
 さて私の理想とする迫力ある授業は、授業の課題に対して問題意識をもち学生に知的魅力を伝えるものである。その根源は研究にある。知的魅力は本人の感動とか知的充足感であり内在的な評価でもある。いま流行りの外からの評価だけによるものはない。このような点から自分の授業に反省をしつつ、現在の状況に閉塞性を感じつつ、そろそろ定年を迎える、一足先に定年を迎えた友人や家内に「自由になって、いいゾー」と言われる日々である。                          東京支部 小澤幸重

(そくほう661号2006年 改稿)